『翻訳通信』第30号 2004年11月号
「二葉亭四迷の呪縛」(山岡洋一)より
「奇妙な言い方だと思えるかもしれないが、これは翻訳であって小説ではないと感じるものが大部分だった。あえて刺激的な言い方をすれば、海外小説の翻訳物の大部分は、小説の文章になっていない。『翻訳』という特殊分野でしか通用しない文章になっている。」
「以上はいずれも実績があり、定評がある翻訳家の作品である。ところがどれも、『原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思える翻訳』にはなっていない。翻訳というものを勘違いしているのではないか、と思える文章だ。それでも読んでもらえるのは、原作が優れているからであり、翻訳とはこういうものだという諦めが読者にあるからではないだろうか。」
「 原文には形があり、意味がある。形を重視するのが直訳、意味を重視するのが意訳だともいえる。だが二葉亭四迷が考えた点は、それほど単純ではなかった。形とは文体であり、文体を決めるのは『詩想』だと云う。そして、二葉亭が目指したのは原文の意味と形を同時に伝える訳文、それによって原文の調子、文体を維持し、その背後にある『詩想』を伝える訳文だったのだ。」
「『余の翻訳の標準』はじつにおどろくべき評論だと思う。何におどろくかというと、ツルゲーネフやトルストイの原文を理解し、その意味を日本語で伝えることがいかに困難かについては何も書かれていないことだ。二葉亭四迷が苦労したのは、意味を伝えると同時に、原文の形、調子、文体、詩想を伝えるにはどうすればいいのかであった。
(中略)
当時の時代背景を考えれば、この標準は高すぎたのだろう。その後の翻訳の歴史をみていくと、原文を理解し、その意味を日本語で伝えることなど、とてもできないとされていたようだ。原文の意味を理解できないのであれば、せめて原文の表面を伝えようとする翻訳が主流になったからだ。こうして一般的になったのが、原文の単語や構文のそれぞれに訳し方を決めて一対一対応で訳す直訳型のスタイルである。つまり、二葉亭がいう原文の形、原文の調子と文体、その背後にある『詩想』を諦めたうえで、『原文にコンマが三つ、ピリオドが一つあれば、訳文にも亦ピリオドが一つ、コンマが三つという風に』訳す方法だけを踏襲するようになったのである。」