わたしがまだ世間ずれしていないピヨピヨだった頃。
これが商売というものか! ということを学んだ出来事は、北京の美容院のベッドの上で起こりました。
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留学生活が数ヶ月も過ぎると、髪が伸びてきます。
当時わたしの生活圏で目に入る美容院は、かなりキレイな美容院か、そうでなければ方向性が真逆の、屋台に毛が生えたような理髪店かでした。
聞くところによると美容院が性的サービスの隠れミノになっているところもあるというのですが、それは店構えでなんとなく見分けがつくので選択肢からは除外。
みていると、屋台に毛が生えたような理髪店にも女性のお客さんは入っているようなのですが、レイヤーがたくさん入ったセミロングのヘアスタイルを維持してくれるかどうかちょっと不安。
それでわたしは、「ちょっと高そうだけれどキレイめの美容院」に行くことにしました。
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中国での美容院体験ではあるあるの話なんですが、美容師のお兄さんが整列しているところの前に立って「何番の师傅をご指名になりますか」って聞かれるのはほんとにイヤ。
自分が指名しなかった人の気持ちを考えると、どんな顔をしていればいいのか分からなくなっちゃうんですよね。
それでお兄さんがカットしてくれる前に、別な人がシャンプーをしてくれるんですが、これが座ったままで、つまり上半身が起きたままで髪をあわあわにしてくれるという不思議なテクニック。頭皮をマッサージしながらのシャンプーでヘッドスパ並みに気持ちがいいのです。
ちなみにヘアカットをしない「洗发」の専門店もあって、ヘッドスパ並のマッサージに味をしめたわたしはその後もあちこちの洗发店に贅沢しに行きました。
たまにですけどね。
あ、もちろん性的サービスをしてない店をちゃんと選んで。
それは後の話で、この時はじめて中国の美容院を訪れたわたしには、まだ知らないことがあったのです。
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あわあわを流してシャンプーを終えると「マッサージをしますか? 無料ですよ」とすすめられました。
日本の美容院でもシャンプーの後に椅子に座っていると頭皮から肩までくらいのマッサージをしてくれますよね。
なのでそんなものかと思って承諾すると、あら、どうしてかしら。隣の部屋に連れて行かれます。
なんとそこにはベッドが並んでいるんです。
へええ、わざわざ横になってマッサージをするのね、と言われるままにベッドに上ります。
するとデパートの美容部員のような制服を着たキレイな女の人がマッサージをしてくれました。
へええ、高そうな美容院ってこういうサービスがあるのねー、と感心しちゃいます。
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するとそのお姉さんに「お顔のトリートメントをしませんか? ○○元ですよ」とすすめられました。
美容エステもやっている美容院だったわけです。
いくらだったかな。40元くらいかな。あまり高くない値段だったんですよね。
数ヶ月の慣れない留学生活で初めての贅沢をしにきているので、まあそれくらいいいかー、とお願いします。
砂ぼこりの舞う北京で、硬い椅子に座って連日の勉強、出かける先といえば学食か授業かくらいのもの。
ひさびさに受けたプロのマッサージに、人生はじめての美顔エステ。
とろけそうになるくらい気持ちよかったですね。
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と思っていたら、お姉さんが「お肌がけっこう汚れています。小鼻の〇〇もひどいです」と言うのです。
〇〇の部分の中国語が分からなかったので聞き直すと「あなたの鼻に很脏很脏的东西(とてもとても汚いもの)があるんですよ」って言うんです。
美容部員みたいなキレイなお姉さんが、ちょっとつっけんどんな言い方で「很脏很脏的东西」ですよ。
ちょっと萎縮しませんか?
そりゃお肌のお手入れは二の次にしてるけど、、、はい、女として怠けてましたスミマセンみたいな気持ちになっちゃったんですよね。
もう読者の皆さんは流れが読めましたよね。
お姉さんは追い討ちをかけて「お肌の汚れをとってなんちゃらかんちゃらのトリートメントをしませんか。〇〇元です」って言ってくるわけです。
その時わたしは靴を脱いでベッドの上。シャンプーしたばかりなので濡れた髪にタオルが巻かれて、顔のマッサージを受けている途中なので顔もべとべと。
しかも女としての敗北感を抱かされていますから、なんかもう、断れないんです。
断れないマインドに追い込まれていたんです。
なにも心構えをしてないって、怖いですねー。
たしか150元か200元かくらいふっかけられたと思います。
安い自転車なら100元で買える時代でした。150元か200元かっていうのは、今の日本で1万5千円か2万円か、というイメージです。
それにわたしはイエスって答えちゃったんですよ。
予定していない買い物に2万円って、正常な神経ではそんなお金出しません。
しかもその日、お財布にはそんな多くの現金は入っていませんでした。
「お金を持っていません」と答えたところ、お姉さんは「あなた商工銀行の口座は持ってる? すぐそこにATMがあるからお金をおろしてきたらいいじゃない」と言うんですよ。
ああ言えばこう言うの応酬が始まりそうです。
しかもこっちは中国語力がそんなでもありません。
わたしは負けたんです。
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それでお姉さんはその「なんちゃらかんちゃら」のトリートメントの準備を始めます。
すると、そのお姉さんと同じ制服を着た別の女の人が通り掛かって、あらこのお客さん「なんちゃらかんちゃら」もやるって? みたいなことを言ったんですよね。
客の目の前でその客のことを話題にする神経もおおらかですね。
それでわたしの担当のお姉さんが「うん」みたいな返事をしました。
そしたらその女の人が「呵(Hē)!」ってひと声発して通り過ぎていったんです。
その「呵(Hē)!」のニュアンスたるや。
第1声なんだけど単母音 e の最後の開く感じのときにちょっと第4声っぽくなるトーンでした。
今でも耳に残ってますね。
翻訳すると「よくやるわね」「たいしたもんね」「そこまで金出すの」「いい魚釣ったわね」「すごいわね」「あきれた」みたいな気持ちがぜんぶ乗った「呵(Hē)!」だったんですよ。
なすすべもなくベッドに横になってるわたしに、それらの意味を全部ひっくるめた「呵(Hē)!」がシャワーのように降ってきました。
それで初めてわたしは、「はっ」と気がついたんです。
ノせられた! って。
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美容院にはヘア部門とエステ部門があること。
シャンプーはシャンプーで、マッサージはマッサージで独立したサービスであること。
それが無料なのは、その先の有料サービスへの入り口だから。
中国の慣習と日本の慣習が違うのを知らなかったのは仕方がない。
それは自分を許します。
自分を許せないのは、「断れなかったこと」です。
すすめられるまま、されるがままに流されていたわたしですが、振り返ってみれば、一つ一つの誘いを断る分岐点はちゃんとあったんです。
なんなら、シャンプーすらせず、美容師のお兄さんを指名したらすぐにカットを始めてもらうこともできたはず。
そこはまあ未経験だったからしょうがないとして、
40元のエステを断らなかった。
150元のエステも断らなかった。
ふだんがんばってるからー、って自分に言い訳をしたのは、断れない性格を理由をつけて正当化したんじゃなかったか。
そう言うことを一瞬にして悟らせてくれたのが、あの「呵(Hē)!」だったんです。
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非常に居心地の悪い思いでエステを終え、最初に指名したお兄さんにヘアカットをしてもらいます。
「なんちゃらかんちゃら」のエステを受けたのか、とお兄さんが聞いてきます。
もうわたしは、お姉さんの口車にのってそんな高額サービスを受けたことが恥ずかしくてなりません。
でもまあ、そうだ、と答えると、お兄さんは静かにうなずいています。
言いたいことがあるのだけれど、あえて口にしない優しさを感じたような気がしました。
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教訓その1。断りたい時は断っていい。
教訓その2。初めてすることは、だれか経験者の話を聞いてからする。
場所が中国でなくたって、これは大事なことですね。
それから、あのお店の商売のやり方はとても上手でした。
必要な人に必要なサービスを届けるには、なにしろ提案しなくちゃ存在が認知されないわけですからね。
不要な人は不要だと断ればいい。
美容師のお兄さんの指名制にしたって、サービスと顧客ニーズとのマッチングを高めるため、合う人だけが選ばれるのが当たり前と思っていれば別になんてことない。
商売と無縁だったわたしにとって、今思えばあれはマーケティングとの初めての出会いだったのかもしれません。
お兄さんのヘアカットはとても上手で、レイヤーのいっぱい入ったセミロングは、おかげさまで維持されたのでした。