「取り出せません」
わたしが初めて使った中国語は、“拿不出来” (取り出せません)でした。
たしか李園という京劇シアターで、孫悟空のお面を記念に買った時のこと。ものをよく見たいのでお面を手に取ろうとしたら、紙製のケースがゆがんでいて、お面が取り出せません。
ボール紙に化粧紙を貼った紙箱が、接着剤が乾くときに縮んで、内側に大きく湾曲していたんです。
そのときお店の人は、“拿得出来!”と言いながら、紙箱が歪むのも気にせず、なんならお面の塗装が剥げそうになるのも気にせず、取り出してくれました。
おお、コロンブスの卵。
これはわたしにとって、可能補語の肯定型と否定型を実際にやりとりしたはじめての思い出になりました。
そしてまた、後年知ることになる中国人の国民性「結果がよければすべてよし」にはじめて触れた瞬間でもあったのです。
結果がよければすべてよし
論説文翻訳の師匠の三潴正道先生が聞かせてくださった話があります。
台の上に豆の山があります。
「この豆の山を、隣のこのスペースまで移動させてください」と指示すると、日本人は2タイプの人に分かれる。まずは豆を箸でひとつぶひとつぶ運ぶ人。たまに見られるのが、豆をなにか器に入れ替えて、指定のスペースまで運んで山にする人。いずれも豆をとりこぼさないように注意し、もとの山と同じ形の山を作ろうとする。
中国人はどうか。
「ああ、こっちに移動させるんですね」とすぐさまその豆の山をザーッと手で動かし、指定の位置までスライドさせて作業完了。豆がこぼれようとも気にしない。指示通りに山が移動したのだから、きちんと指示を履行した。
それが中国人の国民性だとおっしゃるんです。
なるほど、そう言われてみれば、逆に日本人の一人であるわたしには、指示された内容「ではない」ことまで勝手に相手の意図を汲み取り、「豆をこぼさない」「山を同じ形に」なんなら「手で触れない」っていう余計なルールまで勝手に決めて、それで作業をするような傾向があるかもしれません。
それは周囲の多くの知り合いにも感じられることだから、こういうのを日本人の国民性と言ってもいいのかもしれません。
問われたことに答える
「朝は何時に起きるんですか?」と尋ねられたら、なんと答えますか?
わたしは、「えっと、理想は5時半なんですが、6時半になっちゃうこともあります」と答えたことがあります。
そうしたらその問うた人は「だいたいみんな、理想はこうなんだけど、実際はこう、って言いわけをするんだよね」とおっしゃいました。
そう。尋ねられているのは朝起きる時刻という事実にすぎないのであって、わたしが早起きできないのを責められているわけではないのですよね。
意外に、いろんな心の動きがジャマして、問われたことにすっと答えるということができないことも多いのかもしれません。
そんなことを考えながら、中国での出来事を思い返します。
「取り出せない」とお客さんが言ったから取り出す。
「豆を移動させろ」と指示されたから移動させる。
いずれも、求められたことに応える、という点で「問われたことに答える」と似ているなあと思うのです。
一つのトリガーに対して、一つの答えを返す。デジタルな、理系な感じがします。
じつはうちの夫は理系の性格で、わたしが「問われたことに答えない」ことをよく指摘してきます。「質問の内容はね」と。
そんな夫がこのあいだ、食卓に小さな虫がいるのを発見し(だいの虫ぎらい)、
「ねえ、これ何!?」
と助けを求めてきました。あれは、虫の退治をわたしに頼みたいという依頼だったと思います。
でもね、これって、言ってることと頼んでる内容が乖離してますよね。
わたしは「問われたことに答える」が大事〜と、思いまして、これ何? と聞かれたので
「ああ、虫だと思うよ」
と答えて普段の意趣返しをしましたとさ。