夏の帰省先は、東日本のいつもの住まいから700kmの遠き西日本。
岩手出身でその後ずっと首都圏で過ごしてきた私にとって、結婚して初めてご縁ができた西日本。
私はそこの方言を、まるで第二言語を学ぶような過程をたどって、徐々に習得してきました。
その過程は『街なかの中国語』 Part3 巻末の訳者エッセイに書きました。
『街なかの中国語 Part3 話し手の意図・主張の聞き取りにチャレンジ』(東方書店、2014年12月)
今ではヒアリングのほうは9割5分は分かるようになり、スピーキングのほうも5割がた「なんちゃって」方言で話せるところまで来ました。
外国語ネイティブの友達と話していて、なんて表現したらいいか急に分からなくなって、日本語で伝えてしまうことってありますよね。
あれと同じことも起こります。
方言で話していて、どう言ったら正確なニュアンスが伝えられるか分からなくなって、話の後半だけ標準語になったりとか。
「外国語を学ぶのは、その外国語圏の論理や発想法を身に付けるためだ」
とは思いませんが、
「学んだら身に付いちゃった」
っていうことは起こりうるようです。
「あなたは多重人格だったんです!」って知ってました?(『カセツウ』ブログ2017年5月15日)
そしてそれは日本国内でも起こるのでした!
私の方言のお手本は、家の中で長時間を一緒に過ごすお姑さん。
お姑さんがよく使う感嘆詞や語気助詞や副詞は聞く回数が多いので、先に習得します。
そうすると、覚えた語彙で話そうとするから、
お姑さんが話すときの論理展開をコピーすることにもなって、
なんか、口にすることの内容が、お姑さんのコピーになってくるんです。
子供を叱りたくなるシチュエーションで、いつもの私だったら
「一度言われたことは覚えなさい!」
っていう内容を口にしそうなシチュエーションなのに、
「困ったわねえ、○○だったらいいのにねー」
っていう内容が口から出てきたりして。
多言語経験は、自分には、こんな引き出しもあったんだ、っていう新発見をもたらしてくれます。