もくじ
外国語と外国語との会話
音声言語と手話との会話
図書館の魔女の野望
おまけ
先日、『図書館の魔女』という小説を読んでとても面白かったので、
その後あっという間に続編も読んじゃったんですよ。
この小説はエンターテインメントとしても抜群に面白いんですが、語学屋としてビビっとくるテーマも語られていて(しかもそれがミステリーのキーになっていたりして)、知的興奮を味わえました。
なんでそこまでこの作品に入れ込んだかというと、わたしのこれまでの経験にも、言葉をめぐるいろんなことがあったからなんですよね。
外国語と外国語との会話
うちは娘をオール英語の幼稚園に通わせたんですが
その英語幼稚園の先生は、たとえ日本語ができる先生であっても園内では英語を使うという規則があり、保護者にもばんばん英語で話しかけてくれます。
わたしも大昔の思い出を駆使して英語を繰り出してがんばりました。
とはいえ、ちょっと複雑なことを伝えようとするとわたしの英語力では表現できず、先生が日本語ができるということに甘えて、日本語を使ってしまいます。
そうすると先生は、わたしが英語の聞き取りはできるということはご承知なので、わたしの日本語に対して英語で返事をしてくれます。
そしてわたしはまた、先生の英語に対して日本語で返事をする。
そう、2人の人間がまったく違う言語を口にしている、なのに話が通じる、という現象が起こっていたんです。
英語と日本語とでやりとりしていたこのとき、先生とわたしとの間でやりとりされていたものは、いったい何なんでしょうか。
音声なんでしょうか。
翻訳された言葉なんでしょうか。
文字に起こせば文字にできる言葉が行き交っていましたが、英語でもない、日本語でもない、なにか違うものが2人の間を行き交っていた気がするんです。
なんかね、あの時やりとりされていたものは、「意味そのもの」だったんじゃないか。
わたしは「意味」っていう概念的なものが人と人の間を往復する現場を見たんじゃないか、と思っているんですよね。
音声言語と手話との会話
時はさかのぼり、その娘がまだ1歳だったころ。
友人が「ベビーサイン」というものの普及活動をしていました。
簡単に言うと、まだ言葉を話せないベビーと手話でやりとりをしようというのがベビーサインです。
0歳児からの赤ちゃんに向かって、声で日本語を語りかけると同時に身振り手振りを添えるんです。
そうすると赤ちゃんは、日本語音声と身振り手振りのサインとを一緒に覚える。
「このサインを見せられたらおにぎりが出てくるんだな」
「このサインを見せられたらオムツ交換なんだな」
という経験則で、音声とサインと意味が結びついていく。
これは面白いな、と思って、わたしも習って取り組みました。
0歳児の赤ちゃんだと、まだ自分で自在に手を動かすことができませんが、1歳後半になってくると、自分の手でサインを出せるようになります。
1歳だと、赤ちゃんはまだ自由に言葉を話すということができません。
それこそ喃語(なんご)と言われる「んまー、んまー」の段階から、かろうじて「おかあさん」のことを「あっかん」、車のことを「くんま」と言えるようになったかどうかくらいの時期。
ですが、娘はベビーサインでわたしとやりとりができるので、パンが食べたければパンのサインを出し、「片付けしようね」のサインを見ればおもちゃを片付けるようになりました。
最後の頃ですが、おしっこが出たからオムツを替えてくれ、とサインで頼んで来た時は感激したものです。
表現したい内容があれば、言葉で言えなくてもサインで表現できる。
それはおそらく赤ちゃん本人にとってもかなりストレスのない状態だったんじゃないだろうかと思います。
この、1歳から2歳までの時期に、とても印象深い思い出があります。
娘のいる部屋を離れて、トイレに行ったり、洗濯物をしに行ったり、そういうことってありますよね。
そんな時に、「待っててね」と言いながら「待つ」のサインを見せます。
正直言って、「待つ」というのは、具体的なものと結びついておらず抽象的な言葉ですので、音声言語の「待つ」にしてもサインの「待つ」にしても意味が通じているかな? と半信半疑でした。
それでも娘のそばを離れる時はいつも「待っててね」と言い「待つ」のサインを見せることにしていました。
すると!
これも最後の頃ですが、娘に留守番させるつもりで出かけるしたくをして、「お母さんは買い物に行ってくるね」と声をかけました。
わたしはその時、「待っててね」のサインをするのを忘れました。
娘はまだ話せないのですが、こちらの言うことがかなり通じるようになってきたので、わたしがサインを見せ忘れることが増えていたんです。
すると、わたしの「行ってくるね」に対して、娘が0.5秒くらい考えているような顔をして、それからパッと「待つ」のサインをしたんです。
「行ってくるね」に対して、「待ってるね」と返事を返してくれたわけです。
感動しましたね。
音声での発話に対して、身振り手振りのサインでの返答。
そこでやり取りされてるものは、まさしく「意味そのもの」でした。
図書館の魔女の野望
『図書館の魔女』の内容紹介などでも書かれているので、これは書いてしまいますが、「魔女」たる主要人物は音声で言葉を話すことができません。
いわゆる口がきけない人なので、自分は手話で発話し、他人は彼女にたいして音声で発話する、という方式でコミュニケーションしています。
この設定がきっかけとなって、今回はふたつのエピソードを思い出し、そのことについて書いてみました。
ところが「魔女」は、手話と声とで「意味」をやり取りする方式のほかに、とてつもないコミュニケーション方式を編み出そうとします。
それは、世界中のあらゆる言語の音をハンドサインで表現し、それを通訳者に発声させるというシステムです。
これは実際にやってみたら途方もない作業になり、言語ごとに音素の対立が異なっていることなど、膨大な課題があることは容易に知れます。
『図書館の魔女』の作者の高田大介さんは、比較文法・対照言語学を専門とする言語学者でいらっしゃいます。
ですので、音のハンドサインの実現がなぜ難しいのか、課題をクリアするにはどんな工夫をしなければならないのか、それをじゅうじゅう分かった上で執筆されているので、作品にすごいリアリティがあります。
この作品に語学屋のわたしがビビっとひかれたのには、そんな言語学者の目を通した世界が描かれているからなのは間違いないでしょう。
おまけ
ベビーサインについて後々ちょっとびっくりしたのは、9歳になった頃にも、「お腹すいた」と言いながらお腹がすいたのサイン、「のど渇いた」と言いながらのどが渇いたのサインをしていたことです。
うちの娘の第一言語は、聞く方は間違いなく日本語ですが、発話の方では、ひょっとしたらベビーサインが第一言語だったのかも?!
30個くらい覚えていたサイン、9歳で2つしか覚えていませんでしたが、もう声で話せるから不要なのでいいのです。
ご参考に:日本ベビーサイン協会